2025年7月20日(日)コリント人への手紙第一5:1~13【この世のものでない】山口陽一師
- IchikawaFukuinCh

- 2025年7月20日
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はじめに
先週は「パウロの生きざま」と題して、「私に倣う者となってください」と訴えるパウロの生き方を学びました。「神の国は、ことばではなく力にあるのです」と聞いて、信仰をことばだけでなく、生き方で表す者になりたいと思わされました。今週は5章の全体を学びたいと思います。
1、 罪に敏感であれ(1~5節)
1節「現に聞くところによれば、あなたがたの間には淫らな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどの淫らな行いで、父の妻を妻にしている 者がいるとのことです。」
「淫らな行い」は「ポルネイア」、さまざまな性的乱れを表す言葉です。これはまずいですね。律法はこれを禁じています。パウロは「異邦人の間にもな いほどの淫らな行い」と言って、そのまずさに気づかせようとしています。起こってしまったことは致し方ありませんが、パウロが問題にしているのは、それが教会の中で見過ごしにされていることです。
2 節「それなのに、あなたがたは思い上がっています。むしろ、悲しんで、そのような行いをしている者を、自分たちの中から取り除くべきではなかったのですか。」
「思い上がっている」という言葉は4章でも3回使われていました。コリン トの教会には、「淫らな行い」、罪をを避けることに対する厳しさがないのです。4章まで「仲間割れ」問題を取りあつかってきたパウロは、5章、6章で「淫らな行い」にテーマを移すのですが、それらが両方ともコリントの教会の「思い上がり」に起因していると言うのです。神の恵みを誇るのではなく、人間の知恵を誇っていることから仲間割れも淫らな行いの黙認も出てきている。その意味では、仲間割れと淫らな行いは同根だというのです。
3節「私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこに いる者のように、その行いをした者をすでにさばきました。」 パウロの中では、この世との闘い、罪との霊的な闘いがリアルに行われているのです。
24節「すなわち、あなたがたと、私の霊が、私たちの主イエスの名によって、しかも私たちの主イエスの御力とともに集まり、そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日 に救われるためです。」
「サタンに引き渡した」は、サタンの支配するこの世に引き渡した、という意味でしょう。6節から「種なしパンのたとえ」が語られます。
2、 種なしパンのたとえ(6~8節)
6~8節「あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種 が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。」
これはこれはいったい何のこと?と思われるかもしれません。ここは出エジプトの出来事に重ねて語られています。
出エジプトはイスラエルの解放の歴史です。エジプトから逃げ出す時に、急いでいたのでパン種、イースト菌を入れないパンを焼いて食べました。これを記念するのが過越の祭であり、そこでは過越の子羊が屠られ、種なしパンを食べました。
イエス・キリストは過越の祭の時に十字架に架けられたのですが、これこそ出エジプトの成就だったのです。つまり、モーセによるエジプトでの奴隷状態からの解放は型であり、イエス・キリストによる罪の奴隷からの解放こそ、その成就なのです。7節の最後に「私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです」とあるのは、まさにそのことをさしています。
聖霊が降ったペンテコステの後、教会では過越の祭りではなくパン割き、すなわち聖餐式を行うようになります。そこでは過越の子羊であるキリストの肉を表すパンと、契約の血を表すぶどう酒が使われます。私たちもこのような歴史をふまえ、種なしパンで聖餐式を祝っています。
出エジプト12章15節「七日間、種なしパンを食べなければならない。その最初の日に、あなたがたの家からパン種を取り除かなければならない。最初の日から七日目までの間に、種入りのパンを食べる者は、みなイスラエルから断ち切られるからである」
パウロは、パン割きにおいて用いるパンは種なしパンでなければならないと言っているのではありません。そうではなく、教会から淫らなことを取り除かなければならない、と言っているのです。
聖餐式で用いるパンは、種なしパンでないと効果がないということではありません。白石先生の言葉を使えば、それではパンがアイドルになってしまいます。種なしパンは教会から罪を取り除くことを教えるアイコンなのです。
イエス・キリストは五千人、四千人にパンを分け与えられた折に、「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい」(マタイ16章6節)と教えられました。パリサイ人のパン種とは律法主義、サドカイ人のパン種とは世俗主義のことです。今日のところの「淫らなこと」を放置しているのはサドカイ人のパンだね、と言えるでしょう。
市川福音キリスト教会では「教会規則」第7章で「戒規」を定めています。
第32条(目的)
本戒規は、教会の純潔と秩序を保ち、違反者の懲戒と矯正を行うことによっ て、キリストの栄光と救いの恵みを現すために行われる。
第33条(戒規の対象となる事由)
戒規の対象となる違反は次の通りとする。
1.教会員となるに際しての誓約事項に対する違反行為をしたとき。
2.不道徳な行為または背信行為をしたとき。今日の箇所の「淫らな行い」はこれに相当します。
3.信仰及び思想以外の理由により、禁固以上の刑に処せられたとき。
第34条(戒規)
戒規の執行は、役員会が行う。戒規は次の3種類である。
1.戒告 2.陪餐停止 3.除名
今日のところでパウロが言っているのは「除名」に相当するでしょう。5節には「それによって彼の霊が主の日に救われるためです」とあります。戒規は、回復のために行われます。
第28条(復帰)
戒規に付された者が、その後、神と人との前で悔い改め、かつ、その実が見 られる場合は、役員会の議を経て、元に復することができる。
よい機会なので、聖書の教えが、現在の教会規則にどのように反映されているかということをお話ししました。教会は罪赦された罪人の集まりです。そこでは罪が犯されることがあります。しかし、そのことに鈍感であってはいけない。何でも許されていると考えてはいけないということです。
3、教会を聖く保つ(9~13節)9節「私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。」
「前の手紙」とは、私たちの知らないもう一通の手紙のことでしょう。
10節「それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。」
教会はこの世から呼び集められた、聖め分けられた、聖別された者たちの交わりです。その聖さは私たちのものではなく、イエス・キリストの聖さです。
教会は罪を犯さない者の集まりではありません。むしろ、罪を深く自覚し、悔い改めてイエス・キリストに贖われ、イエス・キリストのいのちによって生きるようになった者たちの交わりです。ですから自分たちを誇るのではなく、イエス・キリストを誇ることで、神の前に悔い改めないこの世から分かたれているのです。
ヨハネ福音書17章14~19節「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。私がお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためで す。」
この世のものでない教会が、この世に遣わされているのです。これを自覚することが大切です。11~13節「私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは神がおさばきになります。『あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさ い。』」
申命記13章以下には、9回「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい」という言葉があります。教会の外のことをさばくことはできません。しかし、教会の中のことを聖く保つことは、世にあるキリストの教会の責任です。